「死にたい」と相談される時のこと
僕はよく色んな人から相談をされる。
職場の人、元バイト先の友人、何故かものすごく大手出版社の社長さんだったりもする。
話を聞いて欲しいと言われることは非常に嬉しいことだ。自分という存在を求められていると感じられる瞬間は本当に大切だと思う。
その中で最近特に多いのが「死にたい」という悩み。皆んなそんなに死にたいのかー、と軽く考えながら話を聞く。
僕は本当に何者でもなくただ人の悩みなどを聞くことが好きな一般人なので、何故その重めな相談をわざわざ僕にするのだろうと初めの頃は考えざるを得なかった。
よく聞き上手だと言ってもらえることがあるがそれは素直に嬉しい。だがそれだけの理由で「死にたい」などという悩みを打ち明けるものだろうかと考えた時に、やはりこれはそんなに多くの人間には話しておらず、敢えて僕を選んでくれたのだろうなと思う。
僕は見た目は元々学歴だけは良かった元ガリ勉とは到底思えない馬鹿丸出しの若者で、キャラクターとしても常にヘラヘラしておりどこでもムードメイクをある程度してきたと思っている。
まあユーモアのセンスは皆無なので周りにツッコんでもらって初めて成立する「すべり芸」のようなことしかできないのだけれど。
とにかく一言で言うと、何も考えていないチャランポランないじられキャラという風に見せたいのだと思う。
よく「お前は悩みなんて無さそうで羨ましいよ」なんて言われるのである程度上手くいってはいるのだと思っていた。
しかし、僕にそんな相談をしてきた人に何故自分を選んだのかと問うと、「上手くは言えないが僕には誰よりも深い闇があるように感じる」と口を揃えて言うのだ。
別に明るいのは演技ではない。いじられキャラも無理をしているわけではない。
ただ、同じようなことを考えている人間にはバレるのか、とその時気付かされた。
こちらは彼らの言うところの僕の「闇」の部分について書いた回なので気が向けばよんでもらいたい。
『人は何故生きるのか』
https://hohdaira.hatenablog.com/entry/2020/06/13/035315
相談はそれはそれは親身に受ける。
良いところを自分で言うのは恥ずかしいが、僕はとにかく「良い人」なのだ。「お人好しすぎる」と言っても過言ではないと思う。
これも昔モテなかった大きな原因の1つだとは思うので良いことなのかどうかはわからないが。いわゆる「良い人止まり」というやつだ。
だが少なくとも彼らにしてみればそういうところも含めて相談したいと思ってもらえるのであろう。
そう、「良い人」の僕はそうやってとても親身に話を聞く。のだが。
上に貼ったブログにも書いている通り、なんせ僕自身が人間は死んではいけない、など全く思っていないので、一通り「リストカットがやめられなくて…」「私がこの世界に存在する価値なんて無いよ」「誰にも必要とされないから死のうと思う」という悩みを聞いた後、すごくシンプルに「別に死んでも良いんじゃない?僕はダメだとは思わないけど」という言葉しか出ないのである。
割とびっくりされる。
まあそうだろうなとも思う。しかしこれが僕の本音なのだ。僕はあまり嘘がつけない。
「リストカットすることで楽になるのなら別にやってても良いんじゃない?」「ちなみに君はこの世界に存在する価値のある人間って誰のことを想像してる?その人って本当に世界にいなければ誰か困るの?」「いやー誰かに必要とされる人間なんて幸せだね、僕の周りにはいないなあ。君にとっては誰?」なんて返す。
めちゃくちゃキョトンとされる。
こういう話になると先程のブログのように、日頃は心に隠している僕の本当の中身が全部出てくるのでそこにも驚いているのだろう。
けど、やはりここで重要なのは、彼らの行動を止めさせるためだけの口先だけのキレイゴトだけは絶対に発してはいけないということだ。彼らはそんな教科書通りの意見を求めているのではない。
よく「死にたいと言う奴は死なない」などと言うがそういう話ではない。
僕は全くそうは思わないが、もしそのような方程式が全人類に成り立っていると仮定しても、僕の発言ひとつで次の日からは「死にたい」と言えなくなったり「リストカットを我慢」したりするようになる可能性は大いにあり得る。かろうじて「死」を食い止めていたものを奪いあげることになりかねない。
その日「死にたい」と口にしていた人間でも平気で翌日に死に得るのだ。
そんな彼らに対して思ってもいない口先だけの世間体を気にした対応をすることが1番の悪手だと思うのだ。
こんなことを言っていると「お前のそんな軽率な言葉のせいで本当に死んでしまったらどう責任を取るんだ!」などと批判を浴びそうなのだが。
そもそも僕はカウンセラーや心理学、精神科の医師など、世間的に正しい答えを出さなければいけない立場ではない。
そして彼らは「僕」という人間に助言を求めてきている。それならば僕は「僕の死生観」を本気で伝えることが最善で良心的な対応であると考える。
ちなみに先程例に挙げた3つの言葉は実際に相談された内容であり、3人共がこんなに近くにいた人間が同じような考え方をしているということを知り、「生」というものに対して世間が押し付ける固定観念のような考えを持つのをやめられたことで、言うなれば「なんくるないさー」という感じで生きられるようになった。
そのうちの2人は少し時間がかかったのだが、実はその時彼らは「鬱病」と「鬱状態」にあった。それはある程度話していればすぐにわかったので話をして落ち着いた際にしっかり病院に行くよう伝えた。
ただ、ここに関しては伝えるのは誰でも良いわけではないと思っている。
もしかしたらいつかブログに書くかもしれないが、実は僕も精神疾患を患っている。しかもかなり長い付き合いだ。
今はもうある程度勝手がわかってきて薬の量をその日の感覚で調節することで大きな気分の変化も起こさず付き合えているのだが、もちろん初めの頃は大変だった。鬱病ではないのだがかなり近い症状もよく出ていた。
だからこそ彼らのメンタル状態とその時のつらさは痛いほどわかるしよく知っている。僕自身が何年もその渦中にいたのだから。
彼らが鬱病なのかどうかはわからない。ただ鬱状態であるということは間違い無いと思った。
その「死にたい」という気持ちは多くの場合彼ら自身の意思ではなく鬱状態というものの症状のひとつである可能性が極めて高いのだ。
それならばただ根気強く通院し、仮に鬱なのであれば完治するのだからそれだけで全て上手くいくのだ。
ただ、このケースにおける1番の問題は、基本彼らの周りにそのような精神疾患に関する有識者や理解者がいないことなのである。
1番近いところの親などの世代も未だに鬱というものを心の弱さであると思い込んでいる人も少なくない。
僕の場合救いだったのは、親がある程度理解のある人間で僕が億劫な態度を取っていても無理やりにでも病院に通わせたり、通院することや処方された薬を決められた期間飲み続けさせた。
そのような「強制」こそが精神疾患を患っている人間にとって結果的に1番早く楽になる道筋だということを身をもって気付かされた。
それと同時に、そういう状態の人間が通院ということをすることがどれほど大変なことなのかということも知ることができた。
端的に言うと、よっぽどのことが無い限り、精神疾患を患っている人間は自力で通院しようとはしない、し続けられないのである。だからこそ周りの協力が必要不可欠なのだ。
だから、僕は毎週彼らに連絡を取り通院しているかどうかをしっかり聞いて、辛そうな時には尻を叩いた。
身近にこういうことを理屈を分かった上でしてくれる人がいないのであれば、恐らく僕がここまでしなければ改善は難しいのではないかと思う。
こうやって2人の生活と長く付き合った結果、彼らも今はかなり生きやすくなったようだ。
彼らと向き合っている時も思っていたし、今文章にしていてもどうしてもやはり僕は自分が少し嫌になってしまいそうなほど「お人好し」だなあと思う。
僕は別に生きたくないのであれば生き続ける必要性は全く感じないが、仮に病気の症状で「死にたい」と"思わされている"のであれば全力で力になりたいと思う。
死ぬか生きるかの決断は可能な限り精神状態が正常な時に下すべきだ。
かなりの極論だが、結果的に彼らが死ぬという選択をしても僕はそれは彼らの「運命」であり「寿命」だとも思っている。
僕はそんな彼らに「よく頑張ったなあ」と言ってやりたい。
辛くて辛くて誰にも相談できなくて、勇気を出して親に話せば甘ったれるなと言われ職場ではもっと頑張れと言われる、彼らはずっと頑張り続けていたのに。
そんな言葉に疲れてしまったのだから。
僕は今も1人の面倒を見ているし、これからもそういう人はまた来るのだろう。
そしてそのたびに思うだろう。
「生きたい奴だけ生きればいいさ」と。
もし僕もそっちの立場ならそう言われたいと心から願うから。
「変わり者」ができあがるまで
僕の父はとても真面目で教育熱心だったのだが、何事においても言うことが極論すぎた。
「1位以外は獲る価値がない」「学業をしっかりしていない人間は、例えプロ野球選手でもプロ棋士でも遊んでいる馬鹿だ」「漫画やアニメ、お笑いなんか見ていると頭が悪くなるぞ」
挙げるとキリがないが要はこういう父だった。
僕は物心が付いた頃から常にこのような言葉を聞かされていた。
だが、僕は高校を卒業するあたりまでその言葉を物凄い極論でありひねくれている、ということに気付けなかった。
何故かというと、父はそのようなことを平気で言う人間なのだが、それは彼の壮絶な人生が大きく影響しているのだと知っていたからである。
父は子供の頃から家が極めて貧しく、あまりご飯も満足に食べられていなかったらしい。
そんな中、小学校を卒業する時にそのような環境は自分の努力次第でいくらでも変えられるという教師の言葉に感銘を受け、勉強などしたことも無かった彼は中学に上がるまでに小学生のドリルを片っ端から完璧にこなしていったのだという。
そこからは友人との付き合いなどもほとんど断ち、娯楽など無い生活の中で勉学だけに打ち込んだ。
行こうとした大学はかなり学費がかかったようだが両親にはお金を借りることもなく、毎日1食もやし炒めだけを食べ続けて暮らしていたのだという。
その結果、父は今は世間的に見ても相当位の高い職業に就き人を助け続けている。
そんな父の言葉だったからこそ。僕は高校3年生まで自我という物すら必要だと考えたことが無く、勉強する者だけが正義、という洗脳のもとそれに違和感すら感じないまま超進学校で生きていた。
もちろん思春期はがっつりあったが塾の勉強でそれどころではなかった。悪い点を取れば父のゲンコツが飛んでくるのだから。
前回ブログに書いた僕は学生時代は紆余曲折あり女の子と遊んだことは無かったというのはこのことである。
僕は過去の父のやり方に今でも少し恨んでいる部分がある。
もしかしたら同じ境遇でも生き方を自分で選べる人間はいるかもしれない。しっかりと自分の意見を持って向き合い父の持つ偏見に真っ向から話せば何かが変わったのかもしれない。
ただ、僕にはそれはできなかった。
できなかったから、父を、自分を変えられなかったから、僕はずっと辛い思いをしてきたのだ、とどうしても思ってしまう。
幼稚園のころ、おもちゃを買いに連れて行ってくれていた車の中で急に算数の問題を出され、答えられなかったからと言って即帰宅しその問題をとことん解かせた。
テレビのリモコンをNHK以外選べないように他のボタンをハンダで固定しようとした。
こんな父のもとで育った人間はあまり多くはないのではないだろうか。
もっと自我を持って生きていれば、今大切に思っているものにもっと早くから気づけたのではないかと嘆くばかりである。勉強ができたからなんだ。テストの点なんて机の前で長時間座って勉強していたらどんな人間でも取れるようになるんだよ。そうじゃなくて。もっと大事な、「僕」というものをもっと見て欲しかったし、自分でも気付いてあげたかった。
こう父を恨んでしまうのだが、嫌な思いをするというのは悪いことだけではなくて。
自分が生きていく上で相手に対する接し方としてのひとつの判断材料になる。
自分は良しとして話している、しかし相手はそれを望んでいるのか?
父と別れてからそれをずっと考えて生きるようにしてきた。
そういう面では「あのようにはなりたくない」と思える反面教師が近くにいたのは少しありがたいことだったのかもしれないと感じる時もあるのだが。
ただ、たまに感じることがあって。
僕は、父に似ている。
これだけ嫌がっていて、反面教師とさえ思っている父に、僕は似ている。
恐らく「血」なんて話では無いのだと思う。
昔から細かく注意されてきたこと、叩き込まれてきた礼儀。
自分が知っていて守っていることだからこそ、他人が守れていないと腹が立つ。
電車で騒ぐ子供に対して全く注意しない親がいる。
僕はそもそも子供が好きではないのでまず子供が騒いでいるというだけでかなりストレスではあるのだが。悪いのは子供ではない。
電車の中では大人しくしていなければならない、と躾けない親にこの上ない苛立ちを感じる。
あの親はこれからもずっと注意をしないのであろう。
そしてその子供が一人で電車に乗るようになった時、友達同士と電車の中を走り回ったりするようになるのであろう。
そのような当然のルールを躾けない親に何度電車の中で注意をしようと思ったことか。
僕自身がつらい思いをして暮らしてきたから人の悪いところを見てしまうのではない。
当然のことをしない人間に少し敏感になっているのだ。
人の傘を盗む奴、ポイ捨てをする奴、人をモノのように扱う奴、こういう奴らを見る度にに反吐が出そうな気持ちになるのは、それがいかにやってはいけないことで、人間としての品に欠けるとずっとずっと教わってきたからなのだろうと思う。
僕はこの点に関してだけは、父に躾けられて良かったと心から思っている。
普通では無いことを平然とやるような人間にならずに済んだ、そういう人間に育ててもらえた、そこは感謝している。
こう感じることが増えた。
だからこそ。
僕は父の教えが嫌いだ。ああはなりたくないと思っている。
だが、嫌いだからと言って全てを否定するのではなく。これからも反面教師として常に頭に入れて生きていくが、間違いなく父が正しかったこと、今の僕に活かされていることは父を認めることで自分もひとつ大きくなれると思っている。
変わり者の子は変わり者。
だが、良いところだけ引き継げば良い。
僕は僕の生き方を。
「核廃絶」に含まれていない大切なこと
「核廃絶」という言葉を聞くたびに違和感を感じる。
いや、決して核を減らすことに疑問を持っているわけではない。それは素晴らしいことだと思っている。
問題はそこではない。
「核廃絶」と声高に訴えている人の心には「核」というものさえ無くなれば、という思いがある気がしてならないのだ。
確かに核は悪魔のような兵器だ。1発の核ミサイルで通常の爆弾と比べ物にならないほどの威力がある。
だが、通常の爆弾でも人は死ぬ。
もっというとライフルでも簡単に人は死ぬ。
恐らく通りすがりに無差別に自分の大切な人を銃殺された人間にとったら、核なんかよりも誰でもが銃を持ち歩ける、という状況を無くしてほしいと切に願うのではないだろうか。
焼夷弾で家族を失った人間は何より火の雨を恐れるのではないだろうか。
「核」を無くすことはとても大事なことだ。
しかし、1番の論点はそこではない。
核廃絶と叫ばれている間に全世界で何人が犠牲になっているのか。
普通の爆弾、ただの銃、それでどれだけたくさんの「誰かにとっての大切な人」が殺されているのか。
どこかの国が1発、核ミサイルを発射した段階で、もう地球は滅びその議論も無意味なものになるだろう。
そのような発射された場合の話ではなく。
地球が滅びずに、あなたにとっての大切な人があなたの目に映っている間に、どうしたらその人を守り続けられるか。
その答えを出すための議論は決して「核廃絶」ではないのではなかろうか。
1度にたくさんの命を奪える兵器のことだけを考えるのではなくて。
目の前の1人の人間の命を奪わせないための努力が何より必要なのではないのだろうか。
どうか不特定多数の曖昧な保護を考えるのではなく、あなたの目にいる大切な1人の命のことを考える機会に少しでも変わっていくことを願う。
「他人」の不祥事に介入する愚かさ
世の中、芸能人の不倫や不祥事など、事あるたびに騒ぎ立てられているけれど。
僕には本当にどうでもいい。
仮にその人のことをあなたが大好きで直接応援しに行っていたような人なのであれば少しはわからなくもないのだが。
今まで応援していたのに裏切られた気持ちになるもんね。これまで信じて付いてきたのが馬鹿みたいだもんね。
まあちょっとはわかる気もする。
だが大半の人間がそうではない。
自らの人生にこれっぽっちも関わりが無く、その人物の知名度が高いが故にたまたま付けていたテレビ番組でよく顔を見かけるというだけのもはやアイドルファンにとってのアイドルよりも遥かに遠く、近づく可能性も自分に害を与える可能性もゼロの存在。
言うなればほぼアニメのキャラクターと同じレベルと言ってしまっても良いほどの架空の存在。
それを意気揚々と叩く。
本当に心の底からどうでもいい。
彼らのことを叩く人間はどういう心境で発言しているのだろうか。
そして発言後に彼らはどういう気持ちになるのだろうか。
我を出せて満足する?
世間的に認められている人を下に見れて優越感に浸る?
幸せだなあ。
その行為がいかに無意味で不毛かという話以前にそんなことに時間と気持ちを割ける人間が心底羨ましい。
よほど代わり映えのない退屈で時間を持て余した生活を送っているのだろうなと容易に想像がつく。
僕も自分の全く関係のない人間にそこまで興味を持てるだけの時間と余裕が欲しいよ。
みんな暇なんだろう。
毎日大手術に追われている外科医にはそんな愚かなことはできないだろう。
まあ暇なら何をやってもいいさ。それは個人の自由。
見ていて惨めだなあとは感じるが。
ただ、僕が最も思うところがあるのはその「叩いている」こと自体ではないのだ。
何年か前に不倫、薬物、暴行、なんでも良いのだが、そのような不祥事を起こした人物のことをあなたは覚えているだろうか。
泣きながら謝罪会見をしていた彼らが何をしたか、そしてあなたがその時彼らをどのような言葉で罵ったか、覚えているだろうか。
恐らくほとんどが覚えていないはずだ。
「汚い人間だ。顔も見たくない」「そんな人だとは思わなかった」
そう罵っていたお笑い芸人のネタを楽しみ、スポーツ選手の活躍を応援し、歌手が出したヒット曲に涙する。
あなたはたったの数年で全てを忘れている。
こう言うと「それぐらい覚えているに決まっているだろう」などと熟考した末に反論してくる人もいるのだろうが、ではその不祥事は今のあなたの彼らに対する評価に何らかのマイナスイメージを与え続けているか?
少なくとも僕の周りの人間で過去のことを覚えていて、この役者は過去に〇〇をしたからこの作品は観ない、この曲はヒットしているがこの歌手は過去に〇〇をしたから聴かない、などと言っている人間は一人として存在しない。たったの一人として。
そして彼らは僕が敢えて先の問いかけをするまで過去にその人物のことを叩いたことすら忘れ去っている。
不倫は気持ち悪いだの薬物を使用していたなんてもう応援できないよ、などという気持ちがいかに刹那的なものか。
僕は思う。
彼らは内容のあることを発言したいのでは無いのだ。
生きている中で日頃の鬱憤などを発散するためにカラオケで大声で歌いたくなるように、居酒屋で吐くまで飲みたくなるように、ただ「誰か」を痛めつけたいだけなのではないか、と。
本当に誰でもいいのだ。
自分が過激な発言をしてもそれを否定されない、そういう条件下で上司や先輩、気に食わない同僚の分身としてサンドバッグになってくれる相手が欲しいだけなのだ。
どこかで自分の感じている正義というものを振りかざしたくて、その言葉を相手が目にすることが無いとわかっていても、倫理的に自分の言っていることの方が彼らの行動より正しいという事実だけで何者かになれたような気持ちになれるのであろう。小さな自分とは違い、彼らは誰かにとっての何者かなのだから。
自分自身と全く関係のない場所で起きた出来事でそんなプラスの感情を得られるとはなんと幸せなことか。
その人は自分自身の幸せな度合いを高くしなくても、赤の他人の幸せ度を下げることで自分は彼らが不祥事を起こす前日よりも幸せになれているのだから。
間違ってはいないと思う。多少のズレはあれこういう理屈であろう。
つまり、人を叩きたがる人間は極論、世の中に悪が蔓延れば蔓延るほど幸せになれるという計算になる。
なんと皮肉なことか。
僕は自分自身の力で、自分がなりたい方向へ動くことで、真の幸せという感情に辿りつけるような人間になりたいと思う。
他人は叩くために存在するのではない。
助け合い高め合うために存在するのだ。
一時の感情だけで動くのではなく、将来を見据えてどっしりと構えられるような人間に僕はなりたい。
「好き」とは
僕にはもうすぐ付き合って3年になる彼女がいる。
けど、その子のことが本当に好きなのか、ここしばらくわからなくなってきている。
実は恥ずかしながらこの子は僕の初めての彼女で。
今まで彼女が欲しくなかったとかではなく、僕が純粋にモテなかったのだ。
学生時代は全力で勉強しかしておらず、あまり女の子と遊んだりするようなことも無かったのだが、どの時期も友達自体は多かったのがちょっとした僕の自慢ではあるのだが。
なんせ女の子に異性として見てもらえなかった。「モテそうなのにねー」などとよく言われたがそういう子に限って彼氏がいるのだ。
そんな学生時代を経て、家が厳しすぎた反動からか「遊ぶ」ということをしてみたくなった。
居酒屋でバイトをしながらバイト先のチャラ目な先輩にナンパやクラブでの遊び方を教えてもらった。なんせ反動が凄かった。
そんな夜遊びを1年ほどしていたのだが、僕に彼女はできなかった。
彼女どころかクラブで意気投合した女の子とのワンナイトすらできていなかった。
こういうことをしたことがある人にはわかると思うのだが、これは本当に考えられないほどの残念な結果なのだ。
見た目は割とウケは良い、性格も誰とでも仲良くなれる。それなのに1年間遊び続けても何故か僕は童貞のままだった。
思春期真っ盛りの頃からずっと溜まっていたものに初めて向き合い、厳しい家を出て1年間もバカをし続けたのに。
その頃にはどこで誰と話しても「絶対モテるじゃんー。めっちゃ色んな子と遊んでるでしょ?」と言われるようになっていた。
そうか、日頃の行動は見た目にも出てしまうのかと思ったりもしたが、そんなことより女の子と遊ぶということだけができていないことがどんどん自分の劣等感を強めていった。
そんな流れもあり、もう僕の中では「好き」などという感情は全く必要としておらず、ただただ「彼女」という自分のことを欲してくれる、必要であると言ってくれる存在が欲しいという考えしか無くなっており、少し仲良くなっただけの子にも片っ端から告白しては振られていた。
これほど上手くいかなかった理由として今になって俯瞰で考えてみると、セックスということをしたことが無く、無かったが故にそういう雰囲気になってもちょっとした強引さも出せないという女の子慣れしてなさがアプローチを間違った方向にさせていたのかもしれないとは思う。本当に今になってようやく気付いたことだが。
そうやってただただ下手な鉄砲を数だけ撃っていた中、ある時僕への反応が割と良い子に出会った。
前述した通り、もうその子のことを好きかどうかなどは関係なく、「付き合っている」という関係をただ作ってみたかった僕は猛アプローチをかけ、なんとかその子と「付き合う」ことができた。
何を隠そう、その子が今も付き合っている彼女だ。
その時は何かに追われているような感覚で女の子を血眼になって探し回っていたとはいえ、こんな失礼な流れあるか?とは自分でも思う。
ただ、ここからがもっと彼女に対して失礼で、世間、特に女性を全員敵に回すような発言になると思う。
彼女は付き合い始めた頃からあまり愛情表現をしない子だった。
セックスは好きなのに自分からは一切誘ってくることもないまま3年目も中頃の今に至る。
そして僕は未だに「好き」という感情がよくわからないままでいる。
何度も言うがこの子は僕の初めての彼女であり、唯一セックスをしたことがある子だった。
ただ、僕は彼女とのセックスであまり気持ち良さを感じたことが無かった。
その悩みがずっと頭に付き纏っていた。
だからこそ、他の女の子を1人も知らないままずっと燻っていた僕は「普通」というものを知りたくて仕方がなくなっていた。
「普通」男が絶対に誘うものなの?
「普通」彼女という存在でも愛情表現はそんなにされないものなの?
「普通」セックスって気持ちいいの?
そんな思いが頭を飛び回るようになるにつれて彼女への想いがどんどん薄れていっているのを実感していた。それがとても怖かった。
「好き」って何なんだよ…。
ただ、彼女は性格もよくできた子なのは間違いないし、これだけ長く付き合っているがまともな喧嘩は一度もしたことが無かった。
愛情表現もわかりやすくするタイプでは決してないが、気持ちはある程度伝わってきている。
色んな面を考えても本当によくできた子だし、将来もし結婚などすることになるのであればこんなできた子がいいなと思えるような子なのだ。
だからこそ。僕は世間の「普通」というものを余計に知りたくなった。
僕たちの生活が「普通」なのであればいくら彼女が僕が求めるより刺激が少な目であったとしても、セックスが気持ちよくなくても、それが正解で「普通」なのだから。
どの女の子と同じことをやってもそうなのであれば胸を張って彼女だけを見ることができると思った。
そういう思いで彼女には悪いと思いつつ彼女との全てを「肯定」したいという思いで色んな方法で色んなの女の子と会ってきた。
だが、これは少し考えれば分かることではあるのだが、100人の女の子がいれば100通りの考え方や生き方がある。
会えば会うほど「普通」などというものが存在しないのだということに気付いた。
そして、それと同時に僕は彼女以外とするセックスではちゃんと気持ちよくなれるということを知ってしまった。
体の相性?そんなピンポイントで彼女だけ合わないなんてことがあるのか…?
これに気付いた時は本当にショックを受けた。
そして、そのことで余計にこの彼女とこれからも一緒にいるべきなのかと考えさせられた。ときめくことも無ければこれからずっと気持ちよくもないセックスをし続けなければいけないのかと考えるととても辛い気持ちになった。
そんな中ある時少しときめきを感じることができた子と出会えた。いや…出会ってしまった、と言う方が適切だろうか。
生まれてから感じたことなのない感情が自分の中で芽生えているのを感じた。
初めて女の子の方から気持ちを伝えてくれて、付き合いたいなんて言ってくれている。
一緒にいて楽しい。相手も僕を何より大切にしてくれている。そしてその子とするセックスだと満足できるのだ。
でも、僕には今「彼女」がいる。
ある上司には「別れたら良いんじゃない?初めての彼女なんて誰でもこの子以上の子はいないって思うものなんだよ。その後の子とはみんな惰性で付き合うことになるけど逆にその方が公平に判断できるよ」と言われ妙に納得してしまった。
確かに一緒に過ごしている時間が心地良いのは間違いないのだが、それは初めての彼女であるということから生まれている感情にすぎないということを否定できないのだ。
だが、僕は簡単には「別れる」という選択肢をとることができない。
彼女は20数年間生きてきて初めてできた彼女だから。
今まで「別れる」という経験をしたことが無いから。
怖くて怖くて仕方がないのだ。
「別れる」とはどういうことなのか。彼女は悲しむのだろうか。理由を聞かれたらなんて答える?
今になってはアプローチをすれば色んな子と会えるようになったとはいえ、あまりにもモテなかった劣等感から怖さのあまりこの関係性を壊すことができないのだ。
「好き」って何だよ。
「好き」って思わせてくれよ。
お前しか見れないって思わせてくれよ。
これは間違いなく僕のわがままな想い。
知ってる。よく知ってる。
僕はこれからどうしたらいいのだろうか。
ずっと彼女に内緒でその子と会い続けるわけにはいかない。もちろんどちらか選ばなければいけないことぐらいわかっている。
けどそれは、そんな言葉で軽く解決できるような話ではない。
もう付き合って3年。僕と彼女の人生に少なからず影響を及ぼす判断になるのだろう。
付き合ったり別れたりというものはそういうものなのだろうなと最近考えることが増えた。
あなたは本気で人を好きになったことはあるだろうか。
もしあるのであれば、それは一体どういう気持ちなのだろうか。
誰かを心から愛せるようになれたら幸せだろうな、なんて考えながら今日も倫理に反した行動を取っている自分に嫌気が差す。
僕はいつ「クズ」から抜け出せるのだろうか。
「傘を盗む」ということ
今週のお題「傘」
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僕は傘を盗む人間を許せない。
「傘を盗む奴」というのは、多分人の痛みを感じられない人間なのだろうと思う。そういう人間にはそれなりの刑に服してもらいたいと心から願う。
そいつらの何が嫌いかって、ひったくりやらスリやらでカバンやスマホなども日常的に盗んでいる人間ならまだ筋は通っているのだ。お金欲しさなどの気持ちで犯罪者のレッテルを貼られる覚悟のもと他人を傷つけてでもそれが欲しいんだもんな。
最もそういう輩はもっと大きな刑に復すべきだとは当然思うが、そいつらが「傘ごとき」とほざいているのであればまだ納得できなくはないという話である。
だが、そうではない俗に言う「一般人」という扱いをされている人間は「傘」という物を他人の所有物であるという自覚が無いまま盗みを働き続けている。
そして僕の周りにいる傘を盗む人間の特徴として多いのは「傘なんて盗んで盗まれてって循環するものでしょ?だからこの傘の持ち主も誰かの傘を盗んで平気な顔で帰るよ」と。
本当に手が出そうになる。
僕は先輩後輩に関わらず自分の前では傘は絶対に盗ませない。
それをしようとしているのを見たら僕はコンビニに走って自腹で傘を買い与える。とてもじゃないが見ていられない。
そうやって僕が必死こいて傘を買って来た時に必ず言われるのが、「傘ごときでそんなムキにならなくても(笑)」という言葉。
お前は大きな勘違いをしている。
傘ごとき?値段の話か?それならそこに見えているコンビニでお前が自分で買ってこいよ。
傘というモノの価値の話か?価値があるかどうかなんていうのはこれっぽっちも関係ないんだよ。
その傘は誰かが必死で汗水垂らして働いて得たお金で買ったその人の歴とした所有物なんだよ。
その傘は500円ぐらいの物なのかもしれない。けどお前は人の財布から500円盗まないだろ?
そしてその傘の持ち主が仮に時給1000円のアルバイトをしているような大学生とかであった場合、お前はそいつに自分のために30分ほど無駄に働かせたことになるんだよ。
自分に置き換えて考えたこと無いだろ。
最初にも書いた。お前が人のカバンやスマホを平気で他人の隙を突いて盗む奴なら話は別なんだよ。ほとんどが違うだろ?
「傘」だから盗んでも大丈夫、なんて誰が許したわけでもない行為を恥じらいもなく続けている。
だからこそ思う。
そういう人間には何かしらの手段で自分は人の大事な所有物を盗んでしまったのだという自覚を与える必要が大いにあると考える。
「傘ごときで」という考えを持っている人間がその謎の持論をエスカレートさせていき、「自転車も盗んでもバレないでしょ?」に変わり次第に人を傷つけるような人間になるのではないだろうか。
傘を盗まれた人間が感じる気持ちにすら気付けないのだからいくらでもあり得る話だと思う。
僕は傘を盗まれることが何より嫌なので常に肌身離さず持つことにしている。
もしも何らかの形で傘を盗んだ奴がいたならば僕は絶対に許さない。どうしても許せないと思う。
皆さん、他人の傘を盗むという犯罪を犯したことはあるだろうか。
あったならその時盗まれた人の気持ちは考えていただろうか。
僕は色んな人と仲良くなりたいと思う人間だが、そういう人間とは仲良くなることはできないと思う。
ただ、まあ言ってしまえば人にはそれぞれ許せることと許せないことの区別がバラバラにあって、僕が平気でやっている何かしらの行動に関して非道徳的だと非難される可能性は十二分にあると思っている。
完璧な人間などいない。
ただただ僕がそれをどうしても許せないというだけの話なのだろうなとは思っている。
傘、絶対に盗むなよ。
人は何故生きるのか
昔からずっと考えている。
人は何故生きるのか。
こう言うと僕が自殺志願者だと勘違いされがちなのだが決してそういうことではなく。
でも快速電車が目の前を通過するのを見る時もビルの屋上から道路を見下ろした時も「ああ、いつでも死ねるなあ」と常に思う。恐怖心など1ミリも無い。
重ねるが本当に何か人生に絶望しているだとか死にたいなどと思い詰めているわけではない。ただ、その瞬間瞬間に僕は何故ここから飛び出して死なないのか、と考えてしまう。
いつからこんなことを考えるようになったのかは覚えていないが、ある時人間の価値というモノに疑問を感じ始めた。
僕だけではない。すれ違う人も友人も恋人も家族も、生き続けなければならない理由などはあるのだろうかと思った。
もちろん僕は誰の何者でもない。なんて言うとご両親が悲しむよ、とか彼女さんを泣かせても良いの?などと言われそうなのだが。
どうしても僕には彼らの世界から僕が消えようが何かが変わるとは思えないのだ。
僕の親はよく面倒を見てくれていたし、たくさんの愛をくれていたと感じてはいる。葬式の日など体内の水分が枯れるほど泣くのだろう、とは思う。
しかし、1週間もすればただただ朝と夜に仏壇に手を合わせるという行為が増えるだけの日常が来るのではないか?
友人などに至っては3日もすれば僕の死のことなど忘れて楽しく飲みにでも行くだろう。
こう考えてしまうのは僕だけなのだろうか。僕が変わっているだけなのだろうか。
僕は歳の近い人間が亡くなったことはないが、親戚や祖父母の葬式などでも泣いたことがない。死は誰にでも平等に訪れる。運命だと考えるのは軽率すぎるだろうか。
仮に歳も近く仲も良い友人が亡くなったとしても僕は同じように感じる気がしている。
さっきもし僕が死んでも誰の人生も変わらないと書いたが、これは僕が周りの人間に対してもそう感じているからでもある。
僕は彼らの葬式でも泣かない。次の日には何事もなかったかのように仕事をし、ご飯を食べ、そいつの死を頭の片隅で思い出しながら感情など全く動かないまま眠りに就くだろう。3日も経たないうちに仕事や人間関係などの悩みでそいつのことなど頭から無くなっている自信しかない。
世間的に何者かになっているわけでもない彼らに対してもそう感じるが、例え国を動かすような人間や人の命を救う人間でも同じように感じる。
彼らの代わりなどいくらでもいる。
いつからか、ずっとこんなことばかり考えている。
僕は薄情者なのだろうか。
少し話は飛ぶのだが、僕は5年ほど前にあるセミナーに参加させてもらった。
それはセミナーなどと堅苦しい名前は付いてはいるが中身は極めて単純で、参加者がその時に感じていることや悩んでいることなどを紙に記入し司会者に渡す。そして順番にその悩みなどに関して全員で自分の考えなどを出し合っていくというものだった。
ただただ物事を議論したい人間が集まっている、というあまり僕は経験したことのない空間だったのをよく覚えている。
何故僕がそこに参加することになったのかはよく覚えていないのだが、確か顔の広い友人がお前は面白いやつだからとその場に連れて行かれたのだと思う。
恐らくその頃には平気でこのような世論と外れた持論をダラダラと展開する変わり者に成り果てていたのだろう。
そこで他の参加者が提示していたものは「朝起きるのが苦手だ。どうしたら1回のアラームで起きられるようになるか」や「皆さんが心がけている日頃の行いを教えてください」などごくごくフツウのものだった。
そんな中僕が書いていたのが「人は何故生き続けなければいけないのか」だった。
周りを見るとクソ真面目に書いた自分が恥ずかしくなってしまうほど場違いで重い話題ではあったのだが、このような話題をそこまで大っぴらに話せる機会など無かったし、これから先の人生でこの人たちと再会することは無いだろうという思いから全員の意見を深く聞いてやろうと思った。
しかし聞いても聞いても返ってくるのは教科書に載っているようなことばかりで。
「親御さんはすごく悲しむわよ?」「生とは奇跡なんだ。その奇跡を捨てるなんてもったいない!」「御先祖から続いている血を絶やすのは良くないと思うなあ」
そんな教科書通りの答えをを待ってるんじゃないんだよ。
僕は望んでこの世に産み落とされたのでは決してない。親が自分たちが子供が欲しいからと勝手に作り出したモノにすぎない。
この世には辛いことも苦しいことも山ほどある。ごくまれに嬉しいことや楽しいこともあることは認めるが、僕はその一瞬のためだけにこの世界に居続ける必要性をこれっぽっちも感じない。その瞬間のためだけに嫌味な上司に愚痴られながらやりたくもない仕事をこなし、クタクタの体で家へ帰り食事を流し込んで翌日の仕事に向けて体を休ませる。
こんな「日常」に存在し続ける価値などあるのか?
彼らの答えでは到底それを覆してもらえそうになかったので、はいはい死んだらダメですよねー、いやーやっぱり命って大事ですよねー、と胸糞悪いキレイな「正解」を吐き出して帰ったのだが。
僕が圧倒的に少数派であるという自覚はある。だが決して間違ったことを言っているとは思わない。
僕がぶつけた疑問に対する答えがそれしか出ないようなら生まれてからその地に根付いた宗教や慣習にただ習っているのと何ら変わりはない。死んではいけない理由どころか自分が生きる理由やこの世界に居る意味など一切考えたことが無いのだろうとしか思えないのだ。
命を授かることが奇跡であるならば、何故その奇跡があなたに起こったのかを考えずにいられるのか。
自分が生き続けることに何の疑問も持たず、何の迷いもなくその歳までフラフラと生きていられていることに少し羨ましさすら感じた。
僕もそんな風に何も考えずに生きてみたいよ。
あなたには生きる理由はありますか?
死んではいけないと思う理由はありますか?
僕には無い。
最初にも書いたが、決して僕は何か今特に辛い思いをしていたり過去にトラウマがあったりするわけではない。ただのフツウの人間だと思っている。もちろん自殺願望があるわけでもない。
ただ、人間が生きなければいけない理由が見つからないだけなのだ。
僕の代わりなどいくらでもいる。それは多分これを読んでくれているあなたにも言えることだ。
生きる理由は無い。死んではいけない理由もない。
では、何故人は生きるのか。
何が人を生かしているのか。
僕は死ぬ瞬間までにはこの問いに対する納得のいく答えを見つけたいと思っている。
まあ、その瞬間が来るのは明日なのかもしれないけれど。