「核廃絶」に含まれていない大切なこと
「核廃絶」という言葉を聞くたびに違和感を感じる。
いや、決して核を減らすことに疑問を持っているわけではない。それは素晴らしいことだと思っている。
問題はそこではない。
「核廃絶」と声高に訴えている人の心には「核」というものさえ無くなれば、という思いがある気がしてならないのだ。
確かに核は悪魔のような兵器だ。1発の核ミサイルで通常の爆弾と比べ物にならないほどの威力がある。
だが、通常の爆弾でも人は死ぬ。
もっというとライフルでも簡単に人は死ぬ。
恐らく通りすがりに無差別に自分の大切な人を銃殺された人間にとったら、核なんかよりも誰でもが銃を持ち歩ける、という状況を無くしてほしいと切に願うのではないだろうか。
焼夷弾で家族を失った人間は何より火の雨を恐れるのではないだろうか。
「核」を無くすことはとても大事なことだ。
しかし、1番の論点はそこではない。
核廃絶と叫ばれている間に全世界で何人が犠牲になっているのか。
普通の爆弾、ただの銃、それでどれだけたくさんの「誰かにとっての大切な人」が殺されているのか。
どこかの国が1発、核ミサイルを発射した段階で、もう地球は滅びその議論も無意味なものになるだろう。
そのような発射された場合の話ではなく。
地球が滅びずに、あなたにとっての大切な人があなたの目に映っている間に、どうしたらその人を守り続けられるか。
その答えを出すための議論は決して「核廃絶」ではないのではなかろうか。
1度にたくさんの命を奪える兵器のことだけを考えるのではなくて。
目の前の1人の人間の命を奪わせないための努力が何より必要なのではないのだろうか。
どうか不特定多数の曖昧な保護を考えるのではなく、あなたの目にいる大切な1人の命のことを考える機会に少しでも変わっていくことを願う。