変わり者が感じていること

拙い文章ですがお許しください。

「死にたい」と相談される時のこと

僕はよく色んな人から相談をされる。

 

職場の人、元バイト先の友人、何故かものすごく大手出版社の社長さんだったりもする。

 

話を聞いて欲しいと言われることは非常に嬉しいことだ。自分という存在を求められていると感じられる瞬間は本当に大切だと思う。

 

その中で最近特に多いのが「死にたい」という悩み。皆んなそんなに死にたいのかー、と軽く考えながら話を聞く。

 

僕は本当に何者でもなくただ人の悩みなどを聞くことが好きな一般人なので、何故その重めな相談をわざわざ僕にするのだろうと初めの頃は考えざるを得なかった。

 

よく聞き上手だと言ってもらえることがあるがそれは素直に嬉しい。だがそれだけの理由で「死にたい」などという悩みを打ち明けるものだろうかと考えた時に、やはりこれはそんなに多くの人間には話しておらず、敢えて僕を選んでくれたのだろうなと思う。

 

 

僕は見た目は元々学歴だけは良かった元ガリ勉とは到底思えない馬鹿丸出しの若者で、キャラクターとしても常にヘラヘラしておりどこでもムードメイクをある程度してきたと思っている。

まあユーモアのセンスは皆無なので周りにツッコんでもらって初めて成立する「すべり芸」のようなことしかできないのだけれど。

 

とにかく一言で言うと、何も考えていないチャランポランいじられキャラという風に見せたいのだと思う。

 

よく「お前は悩みなんて無さそうで羨ましいよ」なんて言われるのである程度上手くいってはいるのだと思っていた。

 

 

しかし、僕にそんな相談をしてきた人に何故自分を選んだのかと問うと、「上手くは言えないが僕には誰よりも深い闇があるように感じる」と口を揃えて言うのだ。

別に明るいのは演技ではない。いじられキャラも無理をしているわけではない。

 

ただ、同じようなことを考えている人間にはバレるのか、とその時気付かされた。

 

こちらは彼らの言うところの僕の「闇」の部分について書いた回なので気が向けばよんでもらいたい。

 

『人は何故生きるのか』

https://hohdaira.hatenablog.com/entry/2020/06/13/035315

 

 

 

 

相談はそれはそれは親身に受ける。

 

良いところを自分で言うのは恥ずかしいが、僕はとにかく「良い人」なのだ。「お人好しすぎる」と言っても過言ではないと思う。

 

これも昔モテなかった大きな原因の1つだとは思うので良いことなのかどうかはわからないが。いわゆる「良い人止まり」というやつだ。

 

だが少なくとも彼らにしてみればそういうところも含めて相談したいと思ってもらえるのであろう。

 

 

そう、「良い人」の僕はそうやってとても親身に話を聞く。のだが。

 

上に貼ったブログにも書いている通り、なんせ僕自身が人間は死んではいけない、など全く思っていないので、一通り「リストカットがやめられなくて…」「私がこの世界に存在する価値なんて無いよ」「誰にも必要とされないから死のうと思う」という悩みを聞いた後、すごくシンプルに「別に死んでも良いんじゃない?僕はダメだとは思わないけど」という言葉しか出ないのである。

 

割とびっくりされる。

 

まあそうだろうなとも思う。しかしこれが僕の本音なのだ。僕はあまり嘘がつけない。

 

リストカットすることで楽になるのなら別にやってても良いんじゃない?」「ちなみに君はこの世界に存在する価値のある人間って誰のことを想像してる?その人って本当に世界にいなければ誰か困るの?」「いやー誰かに必要とされる人間なんて幸せだね、僕の周りにはいないなあ。君にとっては誰?」なんて返す。

 

 

めちゃくちゃキョトンとされる。

 

 

こういう話になると先程のブログのように、日頃は心に隠している僕の本当の中身が全部出てくるのでそこにも驚いているのだろう。

 

けど、やはりここで重要なのは、彼らの行動を止めさせるためだけの口先だけのキレイゴトだけは絶対に発してはいけないということだ。彼らはそんな教科書通りの意見を求めているのではない。

 

よく「死にたいと言う奴は死なない」などと言うがそういう話ではない。

 

僕は全くそうは思わないが、もしそのような方程式が全人類に成り立っていると仮定しても、僕の発言ひとつで次の日からは「死にたい」と言えなくなったり「リストカットを我慢」したりするようになる可能性は大いにあり得る。かろうじて「死」を食い止めていたものを奪いあげることになりかねない。

その日「死にたい」と口にしていた人間でも平気で翌日に死に得るのだ。

 

そんな彼らに対して思ってもいない口先だけの世間体を気にした対応をすることが1番の悪手だと思うのだ。

 

 

こんなことを言っていると「お前のそんな軽率な言葉のせいで本当に死んでしまったらどう責任を取るんだ!」などと批判を浴びそうなのだが。

 

 

そもそも僕はカウンセラーや心理学、精神科の医師など、世間的に正しい答えを出さなければいけない立場ではない。

 

そして彼らは「僕」という人間に助言を求めてきている。それならば僕は「僕の死生観」を本気で伝えることが最善で良心的な対応であると考える。

 

 

 

ちなみに先程例に挙げた3つの言葉は実際に相談された内容であり、3人共がこんなに近くにいた人間が同じような考え方をしているということを知り、「生」というものに対して世間が押し付ける固定観念のような考えを持つのをやめられたことで、言うなれば「なんくるないさー」という感じで生きられるようになった。

 

そのうちの2人は少し時間がかかったのだが、実はその時彼らは「鬱病」と「鬱状態」にあった。それはある程度話していればすぐにわかったので話をして落ち着いた際にしっかり病院に行くよう伝えた。

ただ、ここに関しては伝えるのは誰でも良いわけではないと思っている。

 

 

もしかしたらいつかブログに書くかもしれないが、実は僕も精神疾患を患っている。しかもかなり長い付き合いだ。

 

今はもうある程度勝手がわかってきて薬の量をその日の感覚で調節することで大きな気分の変化も起こさず付き合えているのだが、もちろん初めの頃は大変だった。鬱病ではないのだがかなり近い症状もよく出ていた。

だからこそ彼らのメンタル状態とその時のつらさは痛いほどわかるしよく知っている。僕自身が何年もその渦中にいたのだから。

 

 

彼らが鬱病なのかどうかはわからない。ただ鬱状態であるということは間違い無いと思った。

 

 

その「死にたい」という気持ちは多くの場合彼ら自身の意思ではなく鬱状態というものの症状のひとつである可能性が極めて高いのだ。

それならばただ根気強く通院し、仮に鬱なのであれば完治するのだからそれだけで全て上手くいくのだ。

 

 

ただ、このケースにおける1番の問題は、基本彼らの周りにそのような精神疾患に関する有識者や理解者がいないことなのである。

1番近いところの親などの世代も未だに鬱というものを心の弱さであると思い込んでいる人も少なくない。

僕の場合救いだったのは、親がある程度理解のある人間で僕が億劫な態度を取っていても無理やりにでも病院に通わせたり、通院することや処方された薬を決められた期間飲み続けさせた。

そのような「強制」こそが精神疾患を患っている人間にとって結果的に1番早く楽になる道筋だということを身をもって気付かされた。

 

それと同時に、そういう状態の人間が通院ということをすることがどれほど大変なことなのかということも知ることができた。

 

 

端的に言うと、よっぽどのことが無い限り、精神疾患を患っている人間は自力で通院しようとはしない、し続けられないのである。だからこそ周りの協力が必要不可欠なのだ。

 

 

だから、僕は毎週彼らに連絡を取り通院しているかどうかをしっかり聞いて、辛そうな時には尻を叩いた。

身近にこういうことを理屈を分かった上でしてくれる人がいないのであれば、恐らく僕がここまでしなければ改善は難しいのではないかと思う。

 

こうやって2人の生活と長く付き合った結果、彼らも今はかなり生きやすくなったようだ。

 

彼らと向き合っている時も思っていたし、今文章にしていてもどうしてもやはり僕は自分が少し嫌になってしまいそうなほど「お人好し」だなあと思う。

 

 

僕は別に生きたくないのであれば生き続ける必要性は全く感じないが、仮に病気の症状で「死にたい」と"思わされている"のであれば全力で力になりたいと思う。

死ぬか生きるかの決断は可能な限り精神状態が正常な時に下すべきだ。

 

 

 

かなりの極論だが、結果的に彼らが死ぬという選択をしても僕はそれは彼らの「運命」であり「寿命」だとも思っている。

 

僕はそんな彼らに「よく頑張ったなあ」と言ってやりたい。

 

 

辛くて辛くて誰にも相談できなくて、勇気を出して親に話せば甘ったれるなと言われ職場ではもっと頑張れと言われる、彼らはずっと頑張り続けていたのに。

 

そんな言葉に疲れてしまったのだから。

 

 

 

僕は今も1人の面倒を見ているし、これからもそういう人はまた来るのだろう。

 

そしてそのたびに思うだろう。

「生きたい奴だけ生きればいいさ」と。

 

 

もし僕もそっちの立場ならそう言われたいと心から願うから。